『五月雨』


 五月の静かな雨に庭の花が濡れている。

「兄上、遅くなりました」


礼儀正しい弟は、例え時間通りでも兄が先に座にあればそう言って頭を下げる。

同じ兄弟でもそこだけ似ていると言われることのない、明るい髪が少し湿って重そうに
首筋を流れた。


「遅くはない、よくきてくれた。耽ももうすぐくるだろう」

「ふふっ兄上を煩わせるとは許せませんね。」
 雲には一番下の弟を少々いじめて遊ぶ癖があった。

「はは、煩わせるとはまたたいそうな。さほど待ってはいないから怒らないでやれよ」

「ま、そういうことに」


雲は兄に勧められるままに卓についた。

まだ月も出ない時刻なのに薄暗い室内を照らす燭台の火が揺らいだ。
雨の日独特の生臭い匂いが鼻孔をくすぐる。


「兄上、」

「ん」

「お話とは、あのことなのでしょう」


雲には全てが分かっていた。


「それでしたら私は、もう」

「そのことは、耽にも聞かなくては・・・」


運命がまた淀んでうねりだす。

その度に多くのものを失った。家族も、国も、未来さえ失くしかけた。

だから兄弟は慎重だった。

お互いの身を寄せ合って、頑なに自分を信じて生きてきた。

もう失わないように。


「怖いのですね、」

「雲・・・」

「あなたは強い方じゃない。」

「そう、か」


だからこそ、と雲は兄の手に手を重ねた。


「貴方は進むべきです。私はいつだって兄上についていきます」

その道に誤りがない限り。たとえ待っているのが破滅だとしても、あなたが行く道ならば
私にも覚悟がある。


「兄上は、いつも家のために、私たちのために闘ってくださった。」

「いいや、お前たちこそよくやってきた。私の力など」


雲は首を横に振る。

兄はいつだって残された兄弟のために強くあろうとした。
一つしか年の違わない自分でさえそうなのだ。頼られすぎた。


「その通りですよ機兄様」


「耽っ・・・」

驚く二人の兄に、末っ子は「遅くなりました」と、はにかんだ。

「遅いぞ耽、お前が一番最後じゃないか。」

「すみませんね、兄上と違って忙しいので。申し訳ありません機兄様〜」

「なっなんだと! 耽はまったく口が減らないんだから」

生意気な奴だと兄に窘められても耽は飄々としている。
仲睦まじくじゃれあっている弟たちに機は苦笑するしかない。


「それはそうと、兄上の言う通りですよ機兄様。私たち兄弟の間で遠慮などは
 無用のことです!」

 
卓についた耽が言うと、雲も同じだと頷いた。


「そうか・・・。知っての通り太子が廃された今、次の覇権を巡って諸王は争いを始めてしまった。」

「先帝の計算も無駄に終わったということですね。」


雲は神妙に言う。

魏を乗っ取り晋を建てた司馬氏は、一つしかない玉座をめぐって争いを起こさぬようその子たちを
諸王と言う形で各地に振り分けた。だが、それも徒労だったようだ。


「土台無理な話です。八人がいつも睨み合い牽制していた頃は動けなかっただけ、一度均衡が崩れれば
 我先に、と。後は総倒れでしょうね。」

「人は無欲ではいられないのですね。」

悲しそうに耽が言った言葉に二人の兄は少なからず、はっとした。

考えてみれば、六人兄弟の末っ子である耽は当然ながら一番幼くして、父を失った。
その後は、激動の時代に翻弄されたとしか言いようがない。上三人の兄たちを失くし、国は滅亡。
耽が味わったのは絶望感と無力感だけ。幼すぎた彼に、父の兵は分領されなかった。
戦うことなくして失くしたものは大きい。


雲は努めて気遣うように賛同した。


「そうだね、手に入れれば次は更なる権力を求める。終わりなどないのだろう。」
 だから戦はなくならないのだ。

「今や時代は乱世に戻ろうとしている。お前たちは、どう思う? みんなの言う通り呉へ帰るべきなのか、
 このまま都に残り働くべきなのか。」


 そうだ。この兄をもってしても迷わずにはいられない。


「兄上はどうお考えなのです。本心ではここに残りたいと思っているのではないですか。」

「いや私は・・・二人の意見を聞きたいと思って」

 雲はだめだめ、と首を横に振る。

耽は口を挟むことなく成り行きを窺う。こういうことは雲に任せた方がいいと悔しいかな分かっているからだ。

 一つしか歳が違わない兄弟は、人に言わせればまるで正反対だった。
動の陸機なら、雲は静。
二人の気が合うことが不思議だと人は言う。だが二人の精神はもっと深いところで双子のように
繋がっている。
雲は兄の才を一番に愛し、彼のためには努力を惜しまなかった。兄はいつだってその思いに応えてくれる。


だから兄弟は二人で一つ。愛でも恋でも友情でもない。同じ魂を持って生まれた二人。

それが耽には羨ましくもあり少し妬ましかった。


雲は分かっているのですから、と顎を反らす。

聡明な弟に兄は折れるしかない。

「そうだな、実は顧彦先には行かないと断ってしまったんだ。でも、お前たちまで巻き込む気はない。
 この国は今、確かに傾きつつある。そのただ中に残ることなど賭けでしかないよ。だから、お前たちは・・・」
 
 
好きにしたらいい。
その言葉を遮ったのは耽だった。


「よくはありません! 私たち兄弟に遠慮は無用と言ったじゃないですか」

「耽、」

「兄上、思いは同じなのです。――もう失いたくいのでしょう?」

 
語らぬ雲の瞳が妙に優しく熱を孕む。
居場所を、国を、家族を、・・・全てを守ってあげたい。それがあなたの思いだ。

逃げたくないのでも、自負心があるからでもない。


今度こそ手に入れたいから。


「諸王が兵を集め出した今、これまで以上に大きな戦になるだろう。私や雲は大役を免れない。
 そうなれば失脚の可能性も高くなる、それに・・」

 戦なのだ。知らぬ地で討ち死にすることだってある。

誰よりそんなことは分かっている。


「戦は嫌なものです。何度見ても好きになれませんね。」

「雲?」

にこっり笑って雲は世間話でもするように言った。

「だからこそ、勝たねばなりませんよ。」

 
戦は人を幸せにはしない。死ねば家族が泣く。負ければ何もかもを奪われる。

だから、どんなことをしてでも勝たなければならない。それが戦だ。


「戦のない時代がきっときます。」

「国家統一は民族の大望、か。」

「今度こそ、」

 
呉が、祖父が、成しえなかった夢。在りし日の兄弟が守り切れなかったもの。


「今度こそ私たちは勝つのです。」

 それは誰の言葉でもなかった。それは、兄弟の、戦乱の世を生きる者の言葉だった。

「お前たち、本当にそれでいいのか、私と一緒にここに残ると?」

 恐る恐る訊ねる機に何を今更、と弟たちは晴れやかに笑った。


「まだ死の宣告を受けたわけでもないのに、そう深刻になることはありませんよ。」

「耽は楽天家だな、」

まったく、と雲は肩を竦めたが機には弟の明るさが嬉しかった。


「私は最初からそのつもりでしたよ? 覚悟ならとうにできています。最後まで兄上とご一緒しましょう」

「兄上が言うとちょっとそこまで、と同じに聞こえますね。」

「悪い?」

「いいえ、・・ほんのちょっと感心しましたよ。」

「ちょっとか。」

 雲なら本当にそうする気がして。二人は同じところに帰る気がして。
なんの衒いもなく言えるところが羨ましいのに、でも、やっぱり悔しかった。


「機兄様、私は気の利いたことも言えないし、残念ですが兄上のようにお役に立てるほどの才もありません。
 でも、きっと、きっと最期までともに・・・」

「ありがとう、二人とも。」


 ありがとう。


「なんの、水臭い。我ら兄弟行くところは同じです。」

 
しとしとと、降りやまぬ雨に立ち込められ、強い土のにおいがした。

ああ、もうすぐ夏が来る。ふと、そんなことを思った。


 ―――― 我が魂はここに。  願わくは、君とともに還らん 

                   

――― fin ――

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この話は、
拙い自分の作品の中ではありますが、一番気に入っています。
また、気合い入れて書いたんだろうと・・・今更ながら思います。
だからか、だいぶ前に書いたのになかなか出せなかった(笑)
創作なので史実をねじ曲げてしまっている所もありますが、いつものギャグや無意味に
暗い話と違って、兄弟について真面目に考えてみました。
そしていつか、兄弟の話をきちんと一本の軸でまとめることができたら、この話は
必ず入れたいと思っています。
ええ、いつになるか分かりませんが、最近になってようやく彼らの話を長編で書いてみたいと
思い始めました。

千年以上たってまだまだ愛される二陸にひたすら敬服。
いつか彼らの小説をちゃんと書きたい。そんなことを、ふと夢想してしまう梅雨の頃なのでした。